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団体情報

相模原市役所

  • [公社・官庁]
メッセージ
相模原市では、20代、30代の多くの若手職員が活躍しています。若い職員同士が切磋琢磨し、未来の相模原をつくり、発展させていく。仕事の分野は幅広く、あなたが輝き、活躍するステージがきっと見つかります。前例に捉われず、市民目線に立って果敢に挑戦できる方をお待ちしています!

市本庁舎

相模湖

エビラ沢の滝

■団体概要

基本理念
わたしたちのまちは、丹沢の雄大な山なみ、相模川の清らかな流れ、相模野の広大な台地に抱かれ、豊かな自然の恵みの下、歴史と文化が培われ、先人の知恵とたゆまぬ努力により発展してきました。
 しかし、わたしたちを取り巻く社会は、かつて経験したことのない人口減少と世界に類をみない高齢化という大きな課題に直面しています。またAI、lotといった先端技術の急速な進展、リニア中央新幹線の整備に伴う経済・交流圏域の拡大などが、人々の暮らしや働き方に大きな変革をもたらそうとしています。
 そうした社会の変化に対応し、人、自然、産業、文化などの地域資源を生かし、市民生活の質を向上させ、住み続けたいと思える快適で活力のある持続可能なまちを形成していくことは、わたしたちの責務です。
主な取組み
@子育て支援――地域で子育てを支援する環境の整備や子育て世帯の育児・家事への訪問支援。
Aキャリア教育の推進――小中一貫教育の推進や地域人財を活用した教育の充実。
B充実した救急医療体制の整備――初期から三次救急医療機関まで、充実した救急医療体制を確保し、休日夜間の急病患者に医療を提供。
C地域防犯・交通安全活動の推進――市民の防犯・交通安全意識の促進や地域防犯活動の支援
D橋本駅周辺の整備促進――リニア中央新幹線の駅設置を見据えた区画整理やインターチェンジアクセスなどの街路整備。
E地球温暖化対策の推進――中小企業事業者への省エネルギー設備等導入の支援。
F魅力ある公園づくりの推進――相模原スポーツ・レクリエーションパークの整備。
Gシビックプライドの向上――本市に対する誇りや愛着を醸成し、“さがみはらファン”を増やすための取組の推進。
HSDGsの推進――持続可能な開発目標(SDGs)の達成に向けたパートナー制度の促進や普及啓発の実施。
相模原市の特徴
相模原市は、神奈川県の北部に位置し、現在人口72万人を擁する県下3番目の政令指定都市です。市内にはJR東日本、京王電鉄、小田急電鉄合わせて6つの鉄道路線が通り、近年は、圏央道相模原ICと相模原愛川ICの相次ぐ開業など、交通アクセスの良さを背景に、大きく発展を続けてきました。市全体を相模川が横断し、東側には相模原台地、西側には丹沢山地・秩父山地が広がっており、また相模原麻溝公園や相模原北公園など大規模な公園も多く点在しており、東京都心まで1時間という利便性の高さを持ちながらも、川や山を身近に感じることができる自然豊かなまちです。
 本格的な人口減少社会の到来、頻発する自然災害など、厳しい状況下においても、誰もが安全で安心して心豊かに暮らせるよう、市民の皆さまの声に耳を傾けながら、子育て支援、福祉、医療、教育の充実、防災・減災対策、雇用の創出等、各分野の施策を総合的に進めるとともに、本市の大きなポテンシャルを最大限に生かし都市力の向上を図るなど、持続的に発展し、誰もが笑顔と希望にあふれる未来を描くことができるまちを目指して、市政運営に取り組んでいます。
沿革
原始時代の相模原
相模原に人々が住みついたのは3.5万年前ごろと推定されています。

関東ローム層といわれる赤土の層からは、旧石器時代の人々が使用した石器が出土しています。それらは主として相模川沿いや境川、鳩川沿いなどから発見されています。平成9年、田名向原遺跡では、約2万年前の旧石器時代の住居状遺構が発見され、国史跡に指定されました。

次の縄文時代の遺跡は中期(約4,500から5,500年前)のものが多く、境川、姥川、鳩川、八瀬川、相模川沿いなど市内百数十箇所の地点から発見されています。特に磯部の勝坂遺跡で出土した土器の一部は「勝坂式土器」と名づけられ、顔面をかたどった把手や豪華な文様で全国に知られています。

弥生時代の遺跡は市域にはあまり見られず、上矢部や上溝などから後期の土器片が発見されているに過ぎません。

古代の相模原
古墳時代の終わり頃(約1,400年前)、当麻の谷原には10数基の古墳群(円墳)が築かれました。また、谷原の東南に連なる相模川の崖などからは、横穴墓も発見されています。

奈良時代には高座郡に13郷1駅があり、相模原市域にはそのうち3郷くらいの存在を推測することができます。

平安時代後期には武士団が各地に形成されます。市域南部は相模国高座郡の中部(現在の藤沢市長後から綾瀬市)にいた渋谷氏の影響下にあったと考えられます。また、武蔵国横山庄(現在の八王子市域の多摩丘陵)を本拠とした横山党は南下して市域の相原・小山・上矢部・田名などへ進出しました。

中世の相模原
鎌倉時代の初め、市域に勢力を持っていた横山党は建保元(1213)年の合戦で和田義盛に味方して、北条氏と戦い勢力を失いました。

鎌倉時代の末には、時宗の開祖一遍上人が当麻に来たと考えられ、二世真教上人はその故地に無量光寺を建立しました。

南北朝時代には、足利直義の家臣淵辺義博が淵野辺を領有していたと言われています。室町時代の後期には長尾景春の乱に際し磯部に城が築かれました。戦国時代の市域は、小田原北条氏の支配下に入り、当麻に関所が置かれました。

近世の相模原
江戸時代になると、検地によって17の村が成立しました。相模原は江戸に近いため、幕府の直轄領や譜代大名、旗本たちの知行地等に細分化されました。

江戸時代の中頃には、相模野の開発が始まり、幕末までに上矢部新田、大沼新田、淵野辺新田、清兵衛新田などが開かれました。江戸時代の後半には養蚕などの生産が向上し、俳諧など豊かな地方文化が育まれることとなりました。

明治以降の相模原
明治以後も、相模野の開発は行われましたが、いずれも規模は小さく、台地上には雑木林なども多く残されました。

明治22年の町村制施行により、清兵衛新田を含めた市域の18か村は合併して、相原・大野・大沢・田名・溝(後に上溝)・麻溝・新磯の7か村となりました。

一方、産業の面では繭や生糸の生産がますます盛んとなり、明治3年12月に開設された上溝市場はその取引の中心となりました。

明治41年横浜鉄道(現在の横浜線)、昭和2年小田原急行鉄道、同4年小田急江ノ島線、同6年相模鉄道(現在の相模線)が開通し、バス路線も各方面へ延長されました。

昭和12年以降になると、陸軍士官学校、相模陸軍造兵廠、その他の軍関係諸施設が続々と市域に移され、たちまち軍都として時代の脚光を浴びるようになりました。また、軍の施設の移転に合わせ県施行の相模原都市建設区画整理事業もスタートし、現在の本庁付近を含めた整然とした街区割ができました。昭和16年4月、上溝・座間・相原・大野・大沢・田名・麻溝・新磯の2町6か村が合併し、面積108.71平方キロメートルを有する当時の日本最大規模を誇る町、相模原町が誕生しました。(その後、座間町(現在の座間市)は分離独立)

市制施行と人口急増
第2次世界大戦の敗戦により、軍都計画は消滅しましたが、軍の諸施設の多くは米軍に接収され、相模原は基地の町となりました。

昭和25年の朝鮮戦争の勃発に伴い、昭和26年頃からわが国の経済も好転の兆しを見せ、相模原町内の米軍基地やその関連企業に多くの人が職場を求め、町の人口も次第に増え、昭和29年、全国で453番目、県下では10番目の市として、相模原市が誕生しました。当時の人口は約8万人、予算規模は約2億2千万円でした。

昭和30年、地勢の特色を活かして内陸工業都市を目指した相模原市は、工場誘致条例を制定して、工場の積極的誘致を図りました。また、昭和33年8月、首都圏整備法による市街地開発区域第1号の指定を受けたことを契機として企業や住宅団地の進出が活発になりました。折から国の高度経済成長政策や、首都圏に位置していたこともあり、昭和30年代からはベッドタウンの様相も呈するようになりました。人口も昭和42年に20万人、昭和46年に30万人、昭和52年に40万人、そして昭和62年には50万人を突破するという全国でもまれにみる急増を続けています。平成12年に人口60万人を超え、平成15年には中核市に移行しました。平成18・19年の津久井地域(旧城山町・旧津久井町・旧相模湖町・旧藤野町)との合併により、人口70万人を超えるに至っています。 平成22年4月に政令指定都市へ移行しました。

基本データ

所在地
〒252-5277 神奈川県相模原市中央区中央2丁目11番15号
掲載開始日時:2023/11/29 10:09
最終更新日時:2023/11/27 14:27

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